AI と(F)RAND 交渉の未来

カテゴリ
ライセンスに関する見解
日付
2026年7月01日

標準必須特許(SEP)のライセンス交渉において、ライセンサーとライセンシーの双方が、一部のサンプルだけではなく特許ポートフォリオ全体を現実的に評価できる時代が到来しました。これは、SEP ライセンス交渉の情報の在り方を根本から変える大きな転換点となります。

文責:Sharaz Gill

数十年にわたり、標準必須特許(SEP)のライセンス交渉は、「必須性の包括的な分析には多大なコストがかかる」というひとつの実務的な制約の下で行われてきました。ライセンサーは、一度作成したクレームチャートを複数のライセンス交渉で繰り返し利用できるため、その作成コストを正当化することができました。一方、実施者は多くの場合、さまざまな規格にわたって数多くのライセンサーと取引を行わなければならず、提示されたすべての特許ポートフォリオについて徹底的な分析を行うことは、費用対効果の面から現実的ではありませんでした。

しかし、この状況は現在、大きく変わろうとしています。近年では、実施者がライセンス提案に対し、AI を用いて大量の特許を分析した結果を提示するケースが現れ始めています。実施者は、従来のようにライセンサーが提示する代表的な特許(いわゆる「Proud List」)だけを検討するのではなく、AI を活用して独自のクレームチャートやポートフォリオ分析、さらには必須性に関する独自の評価を作成する動きが広がりつつあります。

もちろん、AI によって、必須性に関する意見の相違がなくなるわけではありません。クレーム解釈や技術的解釈、法的判断に関する疑問は依然として存在し続け、専門家同士であってもやはり異なる結論に達するということはありえます。AI が変えたのは分析の結論ではなく、その経済性です。かつては多数の技術者や弁理士が膨大な時間を費やす必要があった大規模な SEP 評価を、今でははるかに迅速に、低コストで実施できるようになり、ライセンス交渉だけでなく訴訟においても、入手可能な証拠のあり方に変革が起きています。

現在では、SEP ライセンス交渉中の双方の当事者が、ポートフォリオ全体を対象とした分析を行うことができるようになりつつあります。その結果、SEP ライセンス交渉における情報の非対称性を大きく変える可能性が高いと考えられます。

私は以前、Sisvel Insights の最近の記事で、AI による特許ポートフォリオ分析は、その結論だけでなく、結論に至った分析手法の透明性、再現性、第三者による検証可能性によっても評価されるべきだと主張しました。本記事では、そのさらに次の段階について探ります。もし交渉の双方の当事者が同じ AI 技術にアクセスでき、それぞれが競合分析を大規模に生成し始めたとしたら、(F)RAND 交渉はどのように変化するでしょうか。

従来の(F)RAND 交渉モデル

SEP のライセンス交渉は、常に不確実性を前提として行われてきました。当事者は、一部の特許が必須である可能性が高いことを知りつつも、その数や重要性、あるいは、裁判所が最終的にそれらの特許をどのように評価するのかを、正確に把握していることはほとんどありません。

実施者にとって、包括的な必須性分析はしばしば、法外な費用がかかり現実的ではありませんでした。一方、特許権者は分析結果を複数のライセンス交渉で繰り返し活用できることから、ポートフォリオ全体の精査に対する多額の投資を行う正当な理由がありました。こうした経済的な非対称性により、特に実施者の側においては、直接的な証拠を欠くことになりました。

その結果、交渉は間接的な指標を基礎として行われました。特許権者は、宣言数、パテントプールの評価結果、訴訟の判断、さらには自ら実施したポートフォリオ分先などの指標を頼りとしていました。一方、実施者は通常、独自の限定的な技術レビュー、有効性への異議、公開された訴訟記録、利用可能なあらゆる市場情報などを主な判断材料としてきました。両当事者とも、これらの指標の限界を理解しつつも、合意形成にむけた実務上有効な基盤として受け入れていました。

こうした状況は、(F)RAND 交渉そのものの進め方にも大きな影響を与えてきました。議論の中心となるのは、ポートフォリオ全体の包括的な分析ではなく、特許権者が提示する代表的な特許リスト(Patent Proud List)であることが少なくありませんでした。また、既存のライセンス契約は、市場で確認できる数少ない観測可能なシグナルであったため、大きな比重が置かれていました。さらに、訴訟はしばしば、こうした既存ライセンスへのアクセスを含め、通常の交渉では入手できない情報を得るためのメカニズムとして機能しました。

この仕組みは完璧にはほど遠いものの、実際には驚くほど円滑に機能してきました。両当事者は、広範な不確実性を前提に交渉を行い、完全な正確性は達成不可能であり、不要であるとういう認識を共有していたのです。

必須性分析の「工業化」

AI の最も重要な貢献は、人間の専門家よりも高い精度で必須性分析を行うことではありません。実際にはそうではなく、AI の真の意義はむしろ「規模」にあります。

これまで数十年にわたり、ポートフォリオ評価における最大の制約は、数千の特許クレームを数千ページに及ぶ標準規格書と照合する膨大な作業量でした。しかし、現代の AI システムなら、わずか数年前には考えられなかった精度と速度で、ポートフォリオを選別し、関連性があると考えられる規格のセクションを特定し、ファーストパスマッピングを生成できます。

この機能はライセンサーだけのものではありません。実施者、訴訟の資金提供者、パテントプール、裁判所、独立した評価機関が、同様のツールを利用できる環境が整いつつあります。人間の専門知識は依然として不可欠ですが、専門家は、真に詳細なレビューに値する特許に焦点を当てることができるようになりました。

その影響は、訴訟における電子証拠開示の普及に例えることができます。コンピュータは、法律家に取って代わったのではなく、法的に注目に値する文書を特定するコスト構造を根本から変えたのです。AI もまた、SEP の必須性分析において、同様の機能を果たし始めています。

そして今、初めて、包括的なポートフォリオ分析が交渉の両当事者にとって経済的に利用可能なものになりつつあります。この変化がもたらす影響は、ようやくその姿を現し始めたばかりです。

両当事者が AI を活用する場合:相互に確実に起きる混乱

AI がもたらす最も早期の変化のひとつに、「カウンターチャート」と呼ばれる状況の出現があります。

従来、クレームチャートは一方向に提示されるものでした。特許権者はポートフォリオの価値を裏付ける証拠としてクレームチャートを提示し、実施者はそれに異議を唱えるという構図が一般的でした。しかし、AI によって、このダイナミクスが変わりつつあります。実施者もまた、自社でポートフォリオ全体のレビューを行い、かつては非現実的だった規模での対抗的な分析結果を生成できるようになってきています。

その結果、実施者の主張は、「SEP を十分に保有していることを示してほしい」という段階から「自社で貴社のポートフォリオを分析した結果、貴社はポートフォリオの価値を過大に評価していると考える」へと変化しています。

本来、この変化により議論の質は向上するはずです。異なる分析結果を比較することで、それぞれが前提としている仮定が明らかになり、分析手法の違いも浮き彫りとなる。そして、争点となる特許について、より綿密な検討が促されることになるでしょう。しかしその一方で、こうした展開は新たな課題も生み出します。

実際のところ、ライセンサーが AI によって生成された大量の反論に直面した場合、それらを手作業によりレビューすることは困難です。ライセンスの世界では、弁護士や技術者の時間は貴重なリソースであり、AI によって生成された大量のクレームチャートを評価するためにそのリソースを費やすことは非現実的です。そのため、ライセンサー自身も AI システムを活用して実施者の異議を評価し、反証し、優先順位を付けるという手法を採用することが増えると考えられます。結果として生まれるのが、当事者双方が AI を使用して AI が生成した他方からの分析に対応するという、「自己増殖的なサイクル」です。

これは、いわば分析に関する軍拡競争のようなものです。クレームチャートとカウンターチャートの生成コストが低下するにつれ、両当事者は、かつてない規模で技術的証拠を作成できるようになります。しかしその結果は確実性の向上にはつながらず、むしろ両当事者とも、迅速にまたは経済的に評価しきれない競合分析がますます増えることになります。

こうして情報過多の状況が始まります。テクノロジーは、両当事者の技術的議論を生み出すコストを同時に引き下げ、クレームチャートがカウンターチャートを生み、カウンターチャートが反論を生み、反論がさらなる反論を生み出します。こうして分析の量は、人間の専門家が評価する能力をはるかに上回るところまで、急速に拡大する可能性があります。

その結果、未来の(F)RAND 交渉では、それぞれが一見すると十分に合理的な技術分析に裏付けられた、複数の競合する「必須性のストーリー」が提示されることになるでしょう。両当事者が工業的規模で技術分析を生成できる環境において、リスクとなるのは証拠に欠けることではなく、証拠が過剰に存在することです。

証拠は、多ければ多いほどよいのか?

AI 主導による透明性の実現は、一見すると全面的に望ましいことであるように思われます。直感的には、情報が多ければそれだけ適切な意思決定を行えるはずです。しかし歴史が示唆するように、技術の進歩は古い制約を排除すると同時に新しい制約を生み出します。

SEP ライセンスにおいても、AI は同様に問題を提示するかもしれません。AI は有用な証拠を生成できる一方で、それをはるかに上回る過剰な証拠を生成しもします。説得力のあるクレームチャートを作成するコストは劇的に低下していますが、それを手作業で検証するコストは変わっていません。

すでに「情報の氾濫」と呼ばれる事態の出現が観測されています。何百件もの異議申し立てを最低限のコストで生成することが可能となりましたが、中には信頼性の高いものもあれば、そうでないものも少なくありません。それでも、申し立てを受け取った担当者はそれらの内容をひとつひとつ確認しなければなりません。

もちろんこれは、直ちに相手方の不誠実というわけではなく、多くの実施者は本来の目的どおり、ライセンス対象となる特許ポートフォリオをより深く理解するために AI を使用することになります。しかし実務上は、交渉の内容がますます、特許そのものではなく特許の分析に関する議論になっていくことでしょう。

AI、(F)RAND に沿った行動と交渉意思

AI の関与はポートフォリオ分析にとどまりません。(F)RAND 交渉に関わる当事者の行為を裁判所がどのように評価するかという点にも、影響を及ぼす可能性があります。Huawei 対 ZTE 訴訟以降、裁判所は、当事者が(F)RAND を遵守しているかを判断する指標として、交渉に応じる意思と誠実な交渉姿勢をますます重視する傾向を強めています。

AI の普及は、こうした状況をさらに複雑にしつつあります。例えば、実施者がポートフォリオ全体の分析と一連の詳細な技術的反論を用意したうえで交渉に臨めば、権利内容を真剣に検討してきたと、一定の説得力をもって主張できるでしょう。しかし同時に、用意した資料の量だけが、真剣に向き合ってきたことを示すものだと認めるべきではありません。今後の裁判所にとっての新たな課題のひとつは、正当な技術的見解の不一致と、AI を利用して交渉のコストと複雑さを増大させる戦略とを見極めることでしょう。

そこで生じるのが次のような問題です。もし実施者が AI によって生成された何百もの異議を提示した場合、ライセンサーはそのひとつひとつに個別に対応する義務があるのでしょうか。AI によって生成されたすべての異議申し立てに対する反論をライセンサーに求めることは、手続きの遅延を強力に誘う結果となるかもしれません。反対に、これらの分析を完全に無視してしまうことも、同様に問題となる可能性があります。

このような場面で裁判所は、やり取りされる資料の山をじっくりと見据え、偽りのない技術的論拠を反映する姿勢を講じているのか、あるいは、情報の氾濫というダイナミクスによって一種の大量生産が低コストで可能になったことを表しているのか、検討する可能性が高いと思われます。したがって、裁判所は結果だけを見るのではなく、手法に焦点を当てるという判断をする可能性があります。当事者が裁判所または相手方に対し、AI によって生成された分析に頼ることを望むのなら、それらの分析がどのように生成されたのか、どのような仮定が適用されたのか、そして結果がどのように検証されたのかを合理的に説明することが当然期待されます。

要するに、AI が広く活用される環境においては、交渉意思とは単に交渉に参加しているかどうかに左右されるだけでなく、提示した証拠が十分に透明性と再現可能性を備え、実質的な精査に耐えうるものであるかどうかによって判断される可能性があります。

AI を介した証拠のレビュー

AI が対立するクレームチャートを生成できるとしたら、それらの比較にも AI を活用できるのでしょうか。

過剰な証拠に対して考えられる対応策のひとつが、双方の意見の相違点を特定し、専門家による判断が本当に必要となる論点を明確にできる、AI を介したレビューシステムの開発です。

もっともこのようなシステムは、特許の必須性や(F)RAND 条件そのものを判定することはありません。あくまで、何千ページにも及ぶ双方の分析資料を整理し、本当に争点となっている事項へと絞り込む、いわば「証拠のトリアージ(優先順位付け)」を行うものです。

もちろん、このようなシステムを実用化するためには、透明性の高い分析手法、再現可能な結果、そして独立した監視・検証が求められます。それでもなお、AI による証拠の生成の変革が進むとしたら、結局のところ、そうした証拠を評価するための同様に高度なツールが SEP エコシステムでは必要となるかもしれません。

パテントプールはどうなるのか?

私の現在の役職からすると、この現象がパテントプールに与える影響を考慮しないわけにはいきません。パテントプールは、SEP エコシステムの中でも独自の位置を占めています。その信頼性は、管理対象となる特許がプールに組み入れられる前に、人間の技術的専門家によって独立して評価を経ていることに支えられています。

しかし AI は、その基盤をゆるがしつつあります。前述のように、実施者がポートフォリオ全体を対象に分析ツールを利用できるようになると、比較的低コストで独自の必須性評価を大量に生成できるようになっていきます。その結果、パテントプールはこれまで積み重ねてきた評価結果について、AI によって生成された大量のカウンター分析に対して説明・防御を求められる立場に置かれる可能性があります。

こうした状況への対応として重要になるのは、評価手法と透明性をこれまで以上に重視することだと考えられます。資格を持つ専門家によって明確な評価基準に照らして行われる、人間による独立した評価は今なお、AI で生成された分析が容易に代替できるものではありません。同時に、パテントプール自身も AI を活用し、評価プロセスの強化および拡張を進めていくことになるでしょう。そうした役割を通じて、パテントプールは二者間交渉と完全に独立した第三者機関によるレビューとの間を埋める重要な存在となる可能性があります。

次の時代の競争優位性

現在の議論の多くは、AI によるクレームチャートの生成に焦点を当てています。しかし、ある機能がいったん広く普及すると、その機能がいつまでも競争上の優位性をもたらす要因であり続けることはめったにありません。クレームチャートの作成自体は、今後コモディティ化が進む可能性が大きいと思われます。その結果、未来の差別化要因は、分析手法、情報源、再現性、信頼性評価、そして紛争管理へと移っていくと考えられます。

成功する組織は、必ずしも最大量のクレームチャートを生成する組織とは限りません。裁判所や交渉相手、独立したレビューアによる精査、および実に広範な AI のレビューに耐えることができる分析を用意できる組織こそが、競争優位を築くことになるでしょう。また、こうした変化は、複数の分析を比較・評価することを専門とする独立評価機関にとっては、好機となるかもしれません。

変化する「パテント・シケット」の課題

数十年にわたり、SEP ライセンス交渉は、包括的な分析が不足し、情報の非対称性が避けられない環境で行われてきました。しかし、AI がそれを変えつつあります。交渉の両当事者がポートフォリオ規模の分析を利用できるようになり、かつては入手が困難だった証拠を、かつてない規模で生成できるようになりました。

技術の歴史は、有益な教訓を示しています。それは、技術の発展は、制約を完全に取り除くのではなく、多くの場合、制約の形を変えるということです。その意味では、AI が「パテント・シケット(特許の藪)」を解消する一方で、新たに「クレームチャート・シケット」とでも呼ぶべき状況になったにすぎず、カウンター分析が有意義に評価されるよりも早いペースで急増するという事態が生じていることがわかったとしても、驚くにはあたりません。SEP エコシステムを支える制度や、慣行、交渉モデルが、このように問題に対応できるかどうかについては、なお未知数です。

問題はもはや証拠の取得にあるのではなく、競合証拠の評価、証拠が依拠する前提の把握、ライセンス付与、訴訟、評価を決定するうえで参照するのに十分な信頼性がある分析はどれかを判断することにあります。

SEP ライセンスの次のフェーズが、最も多くのクレームチャートを誰が生成できるかによって決まる可能性は低いでしょう。それらを評価するための最も信頼できる手法を誰が確立できるかによって決まるでしょう。

もっとも、新たな摩擦が生まれるところには、新たなイノベーションの機会も生まれます。AI が「クレームチャート・シケット」を生み出したとしても、おそらくはこの記事を読んでいる起業家の誰かが、そうした状況を突破する道を見つけるでしょう。

Sharaz Gill はシズベルのポートフォリオ管理責任者です。

この記事に記載された見解は執筆者のものであり、必ずしもシズベルの見解を反映するものではありません。本内容は情報提供のみを目的としており、法的助言として解釈されるべきではありません。

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